源 吉兆庵
備前焼
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暮らしを彩る備前焼
「備前焼」は、現存する日本最古の窯場「六古窯」の一つに数えられます。
釉薬を使わずに高温で焼く焼締陶器で、「窯変」により多彩に変化する焼き色が大きな魅力です。
素朴なようで、実は無限の変化と自然の力強さに満ちた芸術品です。その独特な質感と造形美は、良質の陶土と巧みな造形の技、一週間を越える長時間の焼成から生まれます。
また、使えば使うほど色つやが良くなり、その魅力が引き出されることから、使って始めてあじわえるその美しさ「用の美」も楽しみの一つです。

※「窯変(ようへん)」…「備前焼」では、窯内の温度が1250度にも達します。
 そのため、炎の具合や、薪の灰や火の粉の付着など、窯の中の状況により、茶褐色の地肌に多彩な変化が起こります。


暮らしを彩る備前焼

暮らしを彩る備前焼

【 備前焼の見どころ 〜鑑賞の基礎知識〜 】

「備前焼」の最大の特徴は、釉薬(ゆうやく)を使わない点。炎を直接受けた、素肌の味わいが独特な魅力を醸し出します。「胡麻・棧切・緋襷・牡丹餅・伏せ焼き」などの「窯変」も、施釉陶器とは異なる魅力にあふれています。

[ 土の種類 ]
「備前焼」の原料土には、山土・田土・磯上土の三種類がありますが、現在は、山土と田土が主に使われています。大きな壺などには、耐火度の高い山土が多く混合されます。小型の茶陶や酒器には、土味が求められるため、田土単味(たんみ)が一般的です。
[ 窯の種類と焼き方 ]
窯には、登窯と穴窯があり、用途によって使い分けられます。登窯は、さまざまな窯変が狙えます。穴窯は明るい色が出やすいのが特長です。 また、焼き方によって色が変わります。薪をたくさん使って還元炎で焚けば濃い紫蘇色が出ます。薪を減らして酸化炎で焚けば、明るい赤褐色となります。

(展示物)備前擂鉢(室町時代後期)

古備前擂鉢(室町時代後期)

【 歴史に息づく備前焼 〜成長と変遷〜 】
[ 備前焼の誕生 ]
「備前焼」は、古墳時代から邑久郡(現岡山県瀬戸内市)周辺でつくられた「須恵器」の伝統を引き継ぐ焼き物で、平安時代末期に伊部(現岡山県備前市伊部)で誕生しました。当初は「須恵器」と同じ青灰色の焼き物でしたが、南北朝時代後期には赤褐色になりました。
[ 生活陶器の王者 ]
「備前焼」800年の歴史で、最も多く生産されたのは壺・擂鉢・大甕です。これらは、丈夫で土味や焼け味も好まれ、日常雑器として愛されました。また、壺と大甕は、水・酒・穀物・漬け物などの保存にも適していました。
南北朝時代には、西日本を中心に全国へ販路が広がり、沖縄の遺跡からも出土しています。
室町時代になると、全国的な需要増による量産に対応するため、窯の規模が巨大化。長さ40メートルの窯も登場しました。同じ頃、焼き物の搬出の便を考えて、窯場が、街道沿いや入り江に面した場所に移動しました。
「備前擂鉢は投げても割れぬ」とは、「島原(京都)もちつき歌」の一節です。「備前焼」の擂鉢の擂り目は、いつまでも消えないと評判が高く、全国に流通しました。
[ 茶道具としての黄金期 ]
「備前焼」が初めて茶道具として見立てられたのは、茶湯の開山・村田珠光(1423〜1502)が「備前焼・信楽焼を侘びの茶陶で最高のもの」と定義した、室町時代中期のことです。後期になると、水指・建水などが侘び茶の道具に見立てられました。
桃山時代になると、「備前焼」は、茶聖・千利休(1522〜91)に多く用いられます。豊臣秀吉(1536〜98)は、自ら主催した北野大茶会の上席へ「備前焼」の建水・花入を据えました。「備前焼」は同時代の茶会記に700回近くも登場。信楽・瀬戸・美濃とともに、伊部は、茶陶生産地として全国的に注目を集めるようになりました。
しかし、江戸時代から昭和中期までは、施釉陶器が尊ばれるようになり、「備前焼」の苦況が続きました。

(展示物)彩色備前普賢菩薩香炉(江戸時代中期)

彩色備前普賢菩薩香炉(江戸時代中期)

[ 備前窯業史の例外的存在「彩色備前」 ]
低火度で焼いた、人物・動物などの焼き物に、岡山藩お抱え絵師の指導のもと、胡粉や岩絵具で彩色したものを「彩色備前」といいます。幕府や他藩への贈答品であったため、庶民の眼に触れることはほとんどありませんでした。
[ 人間国宝の誕生 ]
昭和29年、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の認定制度が制定され、演劇・音楽・工芸技術などの中から、歴史上、芸術上価値の高いものが認定を受けました。
「備前焼」も、その一つに含まれ、再び脚光を浴びるようになりました。まず、桃山風備前の復興に功績のあった金重陶陽が、昭和31年に人間国宝に認定されました。
続いて同45年に藤原啓、同62年に山本陶秀、平成8年に藤原雄、同16年に伊勢﨑淳、全部で5人の人間国宝が誕生しました。

【 備前焼と北大路魯山人 】

北大路魯山人は、北鎌倉山崎の邸内で、青磁や染付をはじめ、九谷、鉄絵、赤絵、瀬戸、刷毛目、志野、織部などの焼物を制作していました。最晩年には、備前焼や信楽(しがらき)焼の素肌(すはだ)の土味を最も好ましく思うようになり、備前の古窯(こよう)を自邸に移築。金重陶陽・藤原建などの指導により「備前焼」を制作し、焼成不良のものには、赤絵・銀彩などを施し、さらに味わい深いものに変身させました。

魯山人は、昭和24年(1949)と同27年(1952)の2回、伊部(いんべ)の金重陶陽窯を訪れ、それぞれ1週間ほど滞在しています。その間、魯山人は、それまでの備前焼にはなかった技法を用いて、作陶に挑みました。彼は、タタラによる四角柱や円柱状の粘土塊(かたまり)を針金で切り、掌で叩いて押し、角(かど)を立たせ、鉢・平(ひら)向付(むこうつけ)・俎皿を作りました。芸術と料理に精通した魯山人ならではの感性を活かした、新鮮な創作陶芸でした。以後、備前焼作家の多くが、彼と同じ方法で作る食器を、レパートリーに加えるようになりました。