源 吉兆庵
魯山人
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魯山人肖像

撮影:緑川 洋一氏

書家として才能を認められる

北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)は、1883年(明治16年)、京都の上賀茂に生まれました。本名は房次郎。

10代の頃、書の懸賞で入賞を重ね、才能に目覚めた魯山人は、西洋看板を書く仕事に就き、書の腕を磨きます。1904年(明治37年)、21歳の魯山人は書家を志して上京し、同年、日本美術展覧会で一等賞二席を受賞。若くして書家として世に知られるようになりました。

書家として

提供:平野 雅章氏


星岡窯(北鎌倉 山崎)

星岡窯(北鎌倉 山崎) 提供:平野 雅章氏

美食を極めて器の道へ

魯山人は1919年(大正8年)、36歳のとき、友人と共同で古美術店を開きました。そこで、訪れた客に手料理をふるまううち、会員制の「美食倶楽部」を発足。それが発展して、1925年(大正14年)には、東京・赤坂に会員制の料亭「星岡茶寮」を開くまでになりました。会員には各界の名士が名を連ね、調理・食器・従業員の服装など隅々まで魯山人の感性が行き届いた「星岡茶寮」は、日本一の料亭と評されます。

食の世界を追求するうち、魯山人は、茶寮で用いる食器を自ら制作するようになりました。北鎌倉の山崎に築いた星岡窯で、九谷・鉄絵・赤絵・瀬戸・刷毛目・志野・織部など、古今東西のあらゆる焼物に挑戦しました。ところが、一流の食材と器に経費を惜しまなかった魯山人は、経営上の理由により、1936年(昭和11年)、「星岡茶寮」を追われてしまいました。


提供:平野 雅章氏

作陶に没頭した晩年

鎌倉に移った魯山人は、ひたすら作陶に没頭しました。最晩年には、備前焼や信楽焼の土味を最も好むようになり、備前の古窯を自邸に移築。金重陶陽、藤原建などの指導により、自ら備前焼を制作しました。

その後、国の重要無形文化財(人間国宝)の指定要請を二度も断った魯山人は、1959年(昭和34年)、横浜の病院で亡くなりました。享年76歳でした。


吉兆庵美術館と魯山人 ?うつわは料理のきもの?

「吉兆庵美術館」は、北大路魯山人のこころをもとに展開しています。

「うつわは料理のきもの」とは、魯山人の有名な言葉です。彼の手がけた器に料理を盛ると、食材・素材の持ち味が、さらに引き立つように思えます。それは、魯山人の器は使ってこそ映える器だからです。器に料理を盛りつけてはじめて、魯山人の追い求めた美の世界が完成すると言ってもいいでしょう。